2012年05月22日

浜松と琉球

一分のアンコールにお答えして、ラジオで話したことを今一度書きますね。
番組のブログでは書いていませんので今回はこちらで。

1609年に薩摩侵攻という事件があり、これ以降、日本というか徳川幕府との関係も強化されていきます。徳川将軍の代替わりの慶賀使、琉球王即位の謝恩使による一年から一年半もかかる「江戸上り」が十八回も行われたぜ。
参勤交代とはちょっと違いますが、琉球から江戸まで2000キロに及ぶ長い旅路でした。


浜松と琉球

浜松は江戸時代、東海道の宿場町として栄えていました。そのうち、第七回(1710年)と第十八回(1850年)に一行の者が浜松宿で亡くなり、平田(なめだ)の西見寺(さいけんじ)へ葬られ、後の方のお墓は現存し「琉球塚」として祀られているのだ。


1710年は徳川家宣の慶賀使、仲西筑登之(11/2死亡墓現存せず)がなくなっています。
浜松の人々は彼を丁寧に埋葬してくれた。
にふぇーでーびる、浜松の人。

ついでに言いますが、この時の江戸上りは、あの玉城朝薫が同行しております。この9年後に組踊を初めて上映されますが、この江戸の上りの際、朝薫は日本の芸能を見ており、大きな影響をうけている。
朝薫も浜松でお世話になっているし。
この江戸上りの経験が現在の世界文化遺産につながるといっても過言ではない。


1850年は最後の国王、尚泰王即位の謝恩使でした。
高嶺里主親雲上がなくなっております。
高嶺は江戸上りの花型である、路次楽主取でした。
路次楽というのは、道すがら行進する際に中国風の音楽奏でるやつです。
そのリーダーである高嶺、長旅の疲れでしょうか、浜松で亡くなっております。
僕は以前彼らのことを、琉球ジャニーズと表現しましたが、そのリーダーがなくなったのですから、ショックも大きかったかもしれません。
高嶺もまた、丁寧に葬られ、現在でも西見寺にお墓があります。
今でも琉球古典芸能をされる方がお参りに来たりするそうです。

このように浜松と琉球の縁はあるのですが、
1710年の仲西筑登之が病に倒れた時、実は浜松の人がとても親切に手厚い看病をしてくれました。残念ながら仲西は命を落としますが、その時のお礼として正使である美里王子が浜松の人に贈り物をしております。
「檜扇(ひおうぎ)」です。ヒノキで作られた扇なのです。
檜扇は、木製の扇ですが、これから紙製の扇に変わっていきます。
もともと日本では宮中で使われる、高貴な方の扇です。

浜松と琉球

美里王子は、親切にしていただいたお礼に、浜松の人に送ったのでした。
 こうした経緯からか、浜松市平田町(なめだちょう)のシンボルは美里王子から送られた「檜扇」となっています。浜松には凧揚げ祭があるのですが、そのなかで各地域の凧揚げ合戦があります。
平田町の凧のデザインは、扇です。今でも、150年以上も前に美里王子か贈られたあの扇を、デザインとして使ってくれています。

浜松と琉球

また、(現在は西鴨江に移転した)仲西筑登之が眠っている西見寺およびその本寺である宗源院の寺紋も「檜扇」です。瓦の模様にもこの扇がつかわれています。



東海道の宿場町、浜松ならではのお話ですが、琉球と深い交流があったこと、そして150年前の出来事がいまでも生きているということはすばらしいですね。
あと、同じ宿場町の二川宿ももちろん関係があります。
それはまた次回。



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Posted by かかずひとさ at 09:43│Comments(11)沖縄文化
この記事へのコメント
こんにちは~。
ありがとうございます~~。

こんな昔から琉球と浜松は、縁が有るとは思いもしませんでした。
西見寺へは、行こうと思えば行けそうなので、時間を作って、行きたいな~と思います。

bjリーグでも、ファイナルで必ず琉球と浜松が闘ってるってのも、縁なのでしょうね~~(笑)

浜松って、琉球=沖縄と多くの縁が有って、食べ物でも、豚足の煮付け(てびち)を「おもろ」と言って、食べてます。
諸説有りますが、おもろさうし から名前を拝借したってのが有力みたいです。

では~~。
Posted by ゆーみゆーみ at 2012年05月22日 22:46
遠州と琉球。
徳川家康と尚寧王
それ以降、この二国間は密接にかかわっていくのですね。
あなたの前世はきっと使節団だったのではないかと。
あ、この前おかしありがとうございました(笑)
Posted by かかずひとさ at 2012年05月24日 20:51
遠州と、琉球は、いろんな形で繋がってますね。
私の場合は、物珍しさに興味津々で、キャーキャーしてる宿場町近辺の野次馬だったかも(笑)
あ・・・今も同じか(笑)。

こちらこそ、あの時は、大変失礼いたしましたm(__)m
薫餅もありがとうございます。
Posted by ゆーみー at 2012年05月25日 11:52
あひる・・眉毛があるよ・・><
Posted by よぎしこジャパン at 2012年05月25日 20:28
よぎしこ
良く気づいた!
このまま誰も気づかずに流されて行くのか、それとも気づいているのだけど、僕に絡まれるのがいやなのか(笑)
そんな感じで、じちぇーシワそーたさ。


ここは龍譚という首里城のお池です。
こいつを見つけた時はうれしかったけど、ひっちー逃げてうまく写せなかったから、結構何枚かとったうちのベストショット(笑)
さすが、塾生。

おす!
Posted by かかずひとさ at 2012年05月26日 17:07
こんばんは~~。

あ・・・あひる、気が付かなかった~~~(^_^;)

さてさて、行って来ました、「西見寺」参拝。
リンクしている私のブログに写真UPしたんで、
良かったら~~~。
Posted by ゆーみゆーみ at 2012年05月31日 23:29
とても詳しいですね!このブログ時間も忘れる位、夢中になり、一つ1つコメントとしたくなります!しずおか県、天龍川懐かしいく!またひのきのまくら、硬いけど!いいにおい!しますねよね!開口笑もびっくり!
Posted by 琉球人 at 2015年02月16日 21:14
琉球人さんさんは、このあたりに住んでいたのでしょうか。琉球人がたくさんお世話になった土地ですね。
いつもありがとうございます。
Posted by かかずひとさかかずひとさ at 2015年03月15日 20:23
この歴史を知っていれば、また、違った人生を歩んだかも、最初は、ぶつかり、駅前は人種の違う人たちも、日系沖縄の人、は沖縄の事が大好きで、長くなるので、ただ夢を持っていたので、会社を辞める時は、とてもなだそうそうでした。この若い青年の事を親のように真剣に将来の事を考えていました。最後の日は暖かく祝福され、照れました。浜松及び静岡県の人に感謝です。
Posted by 琉球人 at 2015年06月29日 02:24
琉球人さん
静岡にご縁があったのですね。琉球の人たちは、いろいろなところにお世話になりながら、江戸をめざしました。
歴史にさえ残らない、肝心の交流があったと思います。
あなたも、素晴らしい歴史を作っていただいたということで(笑)
Posted by かかずひとさ at 2015年07月10日 19:10
琉球人―レキオスでしたか。テンペストの映画にある女性が流れさた島は八重山じゃなく、じじつと違いますね、映画だから楽しくアレンジ出来ますね。自分はすぐられじゅ―さぬ(笑)マブイが落ちたかも!角川さんでしたか、大胆な方ですね。今日琉球サウダ―ヂ楽しみにしています。
Posted by 琉球人 at 2015年07月11日 22:40
 
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